11月20日(日)@共和フォーラム。20,november のこの良き日。直参208サークル。
11時開場に対して11時半到着という遅刻っぷり。会場外に列は無かったけど、朝はどうだったんでしょ。会場は1〜4階で、1階がカタログ販売所、2階と3階が即売会会場、4階がコスプレスペース。全体的にまったりだったけど、11半頃の2階のサークルスペース間の通路はちょっと混雑してたような。事前にGoogleドキュメントでサークルチェックはしてたのに、スマホからログインして見るのが面倒で、結局2階→3階と全巡回。後から答え合わせしたらチェックしたところはおおよそ手に入れていたのだけど、『LUV!BEMANI』だけは既に完売してて泣いた。4階のコスプレスペースは鹿の子とオフィーリアとコンシェルジュが印象に残ってる。12時30分に撤収。
即売会のジャンル傾向は「ポップン>IIDX>GF・DM・DDR>指・RB」だったみたい。自分の入手冊数は全ジャンル合計55冊で、その9割5分はポップン。多分フィルソの時よりもたくさん手に入れてる。会場で気になったのは「曲擬人化」本。特に指とRBに目立っていた印象。指やRBは、他の音ゲーとは違って曲のクリップやキャラが無い・少ないから、擬人化的な想像力を引き寄せやすいのだろうか、とかなんとか。
夜はアフターにお邪魔してきました。ビーマニがめちゃうまい人たちの中でビーマニやらない自分がお邪魔して申し訳ない気分になりつつも、音ゲーじゃない話にも乗っていただける雰囲気がとても楽しかったです。音ゲー同人作品もっと語りたいです。あと音ゲーもっとうまくなりたい。
■Short Push & Review
「ひとみとコットン」においては、基本的に 観察者=ひとみ、被観察者=着ぐるみさん である。ただし、着ぐるみさん(の中の人)は「ひとみに自身の正体を明かされることなく、ひとみを観察できる」という特権を持つ。この特権により、観察者と被観察者の力関係は即座に逆転し得る。着ぐるみさんを見続け・追い続けて疲れ果てたひとみを、「やれやれ」と言った表情で背負う着ぐるみさん(というシーンがあったと記憶している)。この「やれやれ」の中に、既に着ぐるみさん→ひとみの観察が込められているのだ。この一瞬の逆転に、私はドラマ性を見出す。
「みもりろっくおん!」においては、みもりと今野くんは観察者にも被観察者にもなり得る。みもりパートでは観察者=みもり、被観察者=今野くんであり、今野くんパートではその逆である。今作の可笑しみは、互いが互いを観察していることに気づいていないこと、そして互いの観察結果にズレがあることにより成り立っている。みもりはストーカー=絶対的な観察者と思いきや、そうとは知らず、今野くんにしっかりと観察されている。しかも、今野くんがみもりを観察する目は、みもりの友人・美月との「禁断の愛」である。(本当は、みもりは今野くんのことが大好きなのに!)
主に志摩時緒作品にスポットを当てて。
| 所与性 | 第三者当然性 | 当事者当然性 | |
|---|---|---|---|
| 来瀬ナオ | 強 | 強 | 強 |
| カザマアヤミ | 強→中 | 強→中 | 強→中 |
| 志摩時緒 | 強 | 強 | 弱 |
各要素とも、強いほど〈日常〉を描き得、弱いほどドラマを描き得る。来瀬はいずれの要素も強く、男女間関係の安定性(あるいは閉鎖性)を元にした〈日常〉作品を描いている。カザマは、近年の商業作品ではいずれの要素も弱い方向へ向かっており、作品のドラマ性を強めている(一方で、同人では仲良しリンレンを描くなど、作者の〈日常〉性は依然として残っている)。
志摩は、所与性と第三者当然性は強いが、当事者当然性が弱い。これは言わば「クラス公認カップルだが、当事者たる男子と女子は互いになかなか積極的にはなれないでいる」状態として作品に現れる。『7時間目の音符』の葉平・あずみの関係性や、ポップン同人作品のハヤト・ツララの関係性はここに相当する。(TODO:放課後プレイ同人作品の彼氏・彼女の関係性の分析)
志摩作品における男女間の関係性は〈日常〉性とドラマ性を効率的に両立させる。すなわち、強い所与性と第三者当然性によって〈日常〉性を、弱い当事者当然性によってドラマ性を成立させる。二人の関係を知る周囲から好機の目に晒されて照れ、しかし二人きりの時は互いに思い切って距離を近づける、などといった男女の言動を自然に描き得る。
■前置き
この記事のフォーカスは「なぜ任天堂は件の同人誌を問題視し、その作者を告訴したのか?」に当てる。任天堂の複製権による告発についての妥当性、警察の対応についての妥当性、その他の話題についてはこの記事のフォーカスから外す。
■読んだページ
■なぜ任天堂は件の同人誌の作者を告訴したのか?
任天堂は、件の同人誌がポケモンのイメージを壊し、子供たちの夢を壊すから、との旨のコメントをしている。このコメントは新聞各紙が報じている。
■なぜ任天堂は、著作者人格権のひとつである「同一性保持権」ではなく、著作財産権のひとつである「複製権」によって告訴したのか? 当該同人誌がポケモンのイメージを壊すと言うのであれば、後者ではなく前者による告訴が妥当ではないか?
感情を持たない法人、特に営利企業(ここでは任天堂)が著作者人格権を行使することは、結局のところ経済的利益を確保するためと見なされ得、人格的利益の保護が目的の同法の趣旨から外れる。一方で、複製権による告発は既に判例があり、任天堂の目的が経済的利益の確保にあったのであれば、複製権によりその目的は十分に達成できたからではなないか、と考えられる。
■【ここから本題】究極的には経済的利益(要はお金)の問題なのか?
任天堂は営利企業であり、究極的に経済的利益の問題に行き着くのは当然である。つまり、その質問に情報量は無い。
むしろ、ここで考えなければならないのは、任天堂がポケモンというゲームによって【どんな価値を】【誰に】提供して利益を得ているか、である。
任天堂はポケモンというゲームにより、ポケモンを集め・育て、彼らと共に戦い・冒険し・成長する楽しさを提供している。その楽しさは、ペットを飼うこと、昆虫採集をすること、あるいは野山を駆け回ることの楽しさに通じるものがあろう。ここから、ポケモンの主な対象が子供、特に小学生であることは容易に想像できる。事実、ポケモンは『コロコロコミック』や『スーパーマリオスタジアム』などの子供向けメディアを通じて展開されてきた。
しかし、子供たちはおそらく、直接はお金を任天堂に落としてはくれない。実際に任天堂にお金を落としてくれるのは大人たち、特に彼/女たちの親であろう。お年玉やクリスマスプレゼントによってポケモンを手に入れた子供は多いのではなかろうか。筆者もお年玉によって初代ポケモンを手に入れた一人である。
ここにおいて、ポケモンに対する「イメージ」が重要になる。他の生命との触れ合いや冒険を通じた成長など、ポケモンに対してポジティブな(言わば「健全」な)イメージを、子供ではなく親に持ってもらって初めて、任天堂にお金が落ちるのだ。さもなくば親は子に言うだろう。「そんなゲームを買っちゃいけません!」と。
さて、件の同人誌――サトシがピカチュウをホテルに連れ込んで猥褻行為におよぶ――である。この同人誌を目にしたら、親たちはポケモンに対してどんなイメージを抱き得るだろうか。ネガティブな(言わば「不健全」な)イメージであることに疑いはない。親たちはそのようなゲームを子に与えることは無くなるだろう。その結果、任天堂にお金が落ちることも無くなるだろう。
おそらく、任天堂はこのような悪影響を懸念して件の同人誌の作者を告訴したのだと、私は考える。新聞報道によれば件の同人誌は郵送にて販売されていたとのことで、内容を目にできる人間は限定されていたはずである。それでも、まかり間違って件の同人誌が子供たちの親の目に触れてしまうことを、任天堂は恐れたのかもしれない。
なお、「件の同人誌によって【作者が直接的に大きな利益を得た】から、任天堂は作者を訴えた」というのは考えにくい。新聞各紙の報道によれば、件の同人誌はB5判で全30ページ(29ページあるいは32ページとする報道もある)。作者はこれを印刷所で300部刷り、1998年夏以降、おそらく1999年1月に逮捕されるまで、1部900円で120部を販売したとのこと。900円/部×120部=108,000円。作者が実際に同人誌を刷った印刷所がどこなのかは調べ切れなかったが、参考までに太陽出版を見ると、32ページのB5判同人誌を300部刷ると36,650円。差し引き108,000円-36,650円=71,350円。当時の印刷費が今とは異なることを加味しても、桁がひとつ違うことはないだろう。つまり、約半年間で作者が得た利益は人ひとりがせいぜい1ヶ月程度生きていける程度の利益であり、とても大きな利益とは言い難い。
もうすぐ延長戦も終了ということで、振り返るなら今しかないだろうと思い、編集部ブログとはてダの過去記事を漁って、気になったイベントを時系列でまとめてみた。
デイリー4コマをひとことでまとめるなら「連携」がキーワードだろう。竹書房との連携、ネットアニメなど livedoor 内の他メディアとの連携、TVやニコニコ動画などの外部メディアとの連携。この業はおそらく竹書房だけでは実現できなかっただろうなあと。
単行本化作品は7作品。第1巻刊行順に、室井大資「妖怪研究家ヨシムラ」、なかしまゆみこ「こけももさん」、伊藤黒介「ベルとふたりで」、ふくた伊佐央「コンビニ番長」、吉田仲良「野獣女子高生」、カワハラ恋「学園カラーズ」、池尻エリクソン「田中さんちの白米ちゃん」。これらの作者あるいは作品をまとめて「デイリー4コマ七英雄」と呼びたい。
欲望の眼差しから理解の眼差しへ
森田さん=被観測者、女子=理解の観察者、男子=欲望の観察者、読者=絶対的観察者、観察結果の差異
生徒たち=被観察者、津田=理解の観察者、生徒たちの心の内が見えない
欲望から理解への変遷?
いわゆる「起承転結」の有名な例として、江戸時代の頼山陽の詩がある。
【起】京の三条の糸屋の娘
【承】姉は十六妹十四
【転】諸国大名は弓矢で殺す
【結】糸屋の娘は目で殺す
ところで、落語家の桂枝雀(あるいは哲学者のカント?)の言葉に「笑いは緊張の緩和から来る」というものがある。また、近年の4コマ漫画、とりわけ萌え系4コマの重要な要素に「キャラ」がある。このふたつを合わせた4コマ漫画の解釈系として、私は「キャラ見せ・緊張・緊張の緩和」というものを提案したい。
「キャラ見せ・緊張・緊張の緩和」の観点から先の詩を読むと次のようになる。
【キャラ見せ】京の三条の糸屋の娘
【キャラ見せ】姉は十六妹十四
【緊張】諸国大名は弓矢で殺す
【緊張の緩和】糸屋の娘は目で殺す
第一段と第二段で糸屋の娘の麗しさを見せる(京都三条は江戸時代の東海道の終着点であり、人が多く集まる場所であったわけで、そこに店を構える糸屋は当然大富豪であり、その娘たちが麗しかったことは想像に難くない、という前提も多分に必要ではあろうが)。第三段で糸屋の娘とは全く関係ないように見える「諸国大名」を挙げ、さらに命に関わる「殺す」という言葉により読み手を緊張させる。そして第四段で「殺す」という言葉に命に関わらない別の意味(=悩殺)を与えることにより、読み手の緊張を緩和させる。
第四段で「殺す」の別の意味が機能するためには、糸屋の娘の麗しさ――すなわち、糸屋の娘のキャラ――が読者に対して適切に提示されていなければならない。仮に、第一段が「そんじょそこらの糸屋の娘」だったら、この詩は台無しである。また、第二段が「姉は四十妹三十八」だったら、ウケる読み手は限定的になるだろう。
@FlowerThief さん、@light1024 さんと一緒に三人で、light1024 さんの上京祝いに。
「なぐも巻き」は蕃納葱さんの4コマ作品「教艦ASTRO」と、月島のもんじゃ焼き屋「むつみ」のコラボにより生まれた「鉄板スイーツ」。和服の国語科女性教師・南雲有子先生にちなんで名前がつけられたとか。詳しくは蕃納葱さんのサイトやなぐも。さんのブログを参照。

お店で我々を迎えてくれたのは南雲先生のポスターと気さくなおばちゃん。なんでも蕃納葱さんはむつみの常連で、なぐも巻きの発案をしたのも蕃納葱さんだとか。さらに、むつみは高円寺にもお店があるとのことだけど、教艦ASTROの舞台が月島なので、なぐも巻きは月島店限定メニューなんだとか。
さて、三人で二枚のもんじゃ焼きを平らげた後で、とどめのなぐも巻きを注文。鉄板スイーツと言うからどんなものが出てくると思ったら、おばちゃんが鉄板で作ってくれた。

まず、抹茶が入った小麦粉の生地を鉄板で薄く焼く。その傍らで小さく長細く切った餅も焼く。

次に、生地の上にあんこを乗せる。

さらに、あんこの上に焼いた餅を乗せる。ここで私が「和風クレープみたいなもんですか?」とおばちゃんに尋ねたら、おばちゃんは「温かい大福餅だよ」と説明してくれた。

これをくるくると巻いて――

一本に。そして同じものを人数分焼く。

焼けたら小分けにして――

きな粉をまぶして出来上がり。
これが美味い。小麦粉の生地がもっちりしていて、さらに中の切り餅が軟らかくて、おばちゃんの言う通り「温かい大福餅」のような食感。そして抹茶・あんこ・きな粉の三重奏。温かい緑茶が欲しくなる優しい味の和風スイーツでございました。これはスイーツのイノベーションやでー。
素敵メニューを考案してくださった蕃納葱さんとおばちゃんとその他もろもろの人々に感謝しつつ、我々はお腹を満たして店を後にしたのでした。もんじゃ焼き屋「むつみ」は月島駅から歩いて5分の路地裏のお店(地図)。もんじゃ焼きとなぐも巻きが一度に楽しめるこのお店、皆さんも一度足を運ばれてはいかがでしょうか。

ごちそうさまでした。
カザマアヤミが2003年に「かさぶたさん」で商業デビューしてから7年半が経った。作者はこの間に作品の性質を少しずつ変えてきた。その変化は「他者といかにしてコミュニケーションを取るか」という点に最もよく現れている。ここでは作者の7年半の期間を4つの時代に分け(期間同士には重なりがある)、それぞれに「ひとりごとの時代」「動物の時代」「表現の時代」「ふたりごとの時代」という名前を与えて、作者作品の変遷を論じる。なお、この記事で挙げる作品タイトルの詳しい発表時期については「カザマアヤミ作品の変遷 - @nifty TimeLine」も参照のこと。
「ひとりごとの時代」の作者作品は、主人公のコミュニケーションが自己完結していることが特徴である。この時代の作品としては、商業デビュー作「かさぶたさん」、第二作「その島のお話。」、同人作品「コトサラ」シリーズが挙げられる。
中でも特筆すべきは「その島のお話。」だろう。ある島に住む少女・花生は「ケーキを空に飛ば」さんとし、島の住民たちは彼女の言動が気になって首を突っ込んでいく。しかし、肝心のケーキを飛ばす理由は、最後まで花生の口から住人には説明されない。そして物語は花生の独白と、ケーキの受け主たちへの言葉――既にこの世には存在しない!――で締めくくられる。そう、この物語は、花生以外のあらゆるキャラは傍観者に過ぎず、彼女の言動の傍目の不思議さを際立たせ、あるいは〈理〉を与えるためだけに存在している。そこに、花生とのコミュニケーションは実質的には存在しない。
自己完結したコミュニケーションは、ともすればそのキャラに、そして作品自体に危うさをもたらしかねない。しかし、そういった危うさが、キャラの若年性によって多少なりとも緩和されていたことは、この時代の作者作品にとって救いだったのかもしれない。
「動物の時代」の作品は、人間とは言葉による意思疎通が不可能な動物とのコミュニケーションを描いている。この時代の作品としては、作者の代表作「ちょこっとヒメ」および、そこにつながる同人作品の動物シリーズが挙げられる。また、「なきむしステップ」にも、若干ではあるがその要素が含まれている。
私が「あなたの手は きっと あったかい ―― 「ちょこっとヒメ」における擬人化と意思疎通 - よつぎりポテト」で述べたように、「ちょこっとヒメ」において、作者は〈視点の詐術〉とでも呼ぶべき手法、すなわち〈人間の目〉と〈動物の目〉を意図的に切り替える手法を用いることによって、スキンシップの瞬間に人間と動物が意志を通わせあっていることを強調しようとしている。(なお、この手法は「ちょこっとヒメ」を待たずとも、同人作品「やわらかい雨の後日」において既に用いられていた。)
一方で、人間同士のコミュニケーションは、この時代の前半は散漫ながら、後半になるにつれてより密に描かれるようになっていく(それはナベと颯子の関係に現れている)。その意味で、この時代は「脱・ひとりごとの時代」と読んでもいいかもしれない。
「表現の時代」の作品は、表現する少年少女たちの苦悩と成長、そしてそこにおけるコミュニケーションを描いている。この時代の作品としては「幻燈師シリーズ」「なきむしステップ」が挙げられる。(前述した「コトサラ」も美術部漫画ではあるが、やはり「ひとりごとの時代」の要素の方が強い。)
この頃から、作者作品では対人コミュニケーションが多く描かれるようになる。「幻燈師シリーズ」において少年少女たちが行う「幻燈」は彼ら彼女らの内面の発露であり、それは想い人に対する自己の開示として機能するがゆえに、コミュニケーションの要素を本質的に含んでいる。また、「なきむしステップ」では、主人公の奈々が想い人の杉原と相互理解と成長を通して恋人までたどり着くステップを、そして奈々が父親に自身の「絵本作家になりたい」という夢を理解してもらうための対話と理解のステップを描いている。
対人コミュニケーション、特に男女間のそれは、往々にして恋愛という要素を含む。作者もその例に漏れず、「表現の時代」は次なる「ふたりごとの時代」につながっていく。
「ふたりごとの時代」では、これまでの作者作品に存在していた動物や表現といった要素は薄れ、男女間のコミュニケーション――それも、いわゆる「こっぱずかしく」「ニヤニヤする」もの――が重点的に描かれている。この時代の作品としては「はつきあい」や「せなかぐらし」、そして「More Sweet Chocolate」以降に発表された同人作品が挙げられる。
この時代になると、初期の作品に見られた危うさはもうどこにもない。互いに意志を通わせあおうとする少年と少女の、あと一歩踏み込めないもどかしさ、そして一歩踏み込まれた瞬間の戸惑いが、透き通った絵と相まって効果的に描かれている。ここにおいて、作者はひとつのスタイルを確立したと言えよう。
以上、駆け足であるが、カザマアヤミ作品の変遷を追いかけた。その過程で「ひとりごと」から「ふたりごと」へ、すなわち自己完結したコミュニケーションから男女間のコミュニケーションへと、作者作品の志向が変遷してきたことを見てきた。
さて、今後の作者作品はどこへ向かうだろうか。初期作品の危うさは、いわゆる「空気系漫画」の危うさであり、それはガンガン的要素に近いものがある(事実、作者は『ガンガンWING』でデビューしている)。一方で、作者が今日に獲得したスタイルは少女漫画性が強い(「はつきあい」と同じく『ガンガンJOKER』に掲載されている「カミヨメ」と比較して、私たちはどちらが「ガンガンらしい」作品だと思うだろうか)。このまま少女漫画性を追い求めるのか、はたまたガンガン的要素への揺り戻しがあるのか、それとも全く別の要素を獲得するのか――。作者作品のファンであれば、この点を意識して作品を追いかけてみても面白いかもしれない。
『まんがタイムWAVE』の終了に寄せて。そして4コマオフ会に触発されて。
芳文社は連載ウェブコミックに対して消極的なスタンスを取っているように見える。きららWebでの連載はたった4作品(それも申し訳程度のページ数)。花音や週漫はウェブサイトでの連載作品がない。今回終了したWAVE(と、それ以前のタイムWebでの連載)も、連載陣は新人のみだった。
他の出版社に目を向ければ、竹書房は『デイリー4コマ』と協力して新人の発掘をするだけでなく、『まんがライフWIN』に竹書房誌の既存作家を投入している。双葉社は『まんがタウン』のウェブコミックこそないが、『Web漫画アクション』や『WEBコミックハイ!』(、そして少し前には『COMIC SEED!』)といったサイトを持っている。一迅社もこの6月に『ぱれっとONLINE』を開始予定だという。
むろん、これは誰に作品を届けるかということと不可分であろう。実話系を主軸とするぶんか社がオンラインコミックサイトを持たない(少なくとも、私には見つけられなかった)としても納得がいくというものだ。
しかし、たとえそうだとしても、少し前のきらら系列誌が見せた「東方(=ウェブと親和性が高い)同人作家を引っ張ってくる」ことと、「彼ら・彼女らを集めたオンラインコミックサイトを作る」ことは、結びついてもいいはずである。しかし、今のところそうはなっていない。
思うに、芳文社は「内輪受け」を嫌っているのではないか。ウェブ上の作家をオンラインコミックサイトに掲載したところで、それは作家をウェブの別の場所に移動させただけのことである。作家の作品をウェブでチェックしている読者、すなわち「内輪」には認知されても、その作家を知らず、そして紙で漫画を読む読者、すなわち「外」の人々には認知されにくい。その結果、読者のパイを大きくしづらい。
この「内輪受け」を嫌うスタンスは、ミラクにも現れているように見える。pixivやふたばから作家を引っ張ってきたのであれば、同じくウェブ上に漫画を掲載した方が、作家の既存読者に対してリーチしやすいことは明確である。にもかかわらず、ミラクは紙媒体で出版された。それは「内輪受け」を避け、作品の良し悪しを広く読者に問うているのだと、私は考える。
(ちなみに、芳文社は、単行本の試し読みのウェブ公開には力を入れている。きららWebでは最初のKRコミックスである『トリコロ(1)』から最新刊に至るまでのおそらく全ての単行本が、タイムWebでは2010年1月以降に刊行されたおそらく全ての単行本が試し読みできる。単行本を軸とした収益モデルを採用する芳文社らしいと言えばらしい。)
タイトルを「すいもあまいも」に変えました。「seed tubr」時代のコンテンツは削除して Dropbox に避難させました。
これからは「本家ブログよりフランクかつノンジャンルに。Twitterより頭と言葉を使って。」をコンセプトに更新していこうと思います。